手に「うっすら」油を塗るか否か
文章を書く仕事をしているからなのか、はたまた、元々そういう性格なのかはわからないのですが「つい気になってしまうコトバ」があります。
この「つい気になってしまうコトバ」には、色々なパターンがあります。
まず「表現が気になる」パターン。「そういう言い方する?」とか「このシーンでその言葉使うかね」といったものです。
例えば、YouTubeでパンを作る動画を見ていた時「手にうっすら油を塗って」というテロップが出てきました。
そう。「うっすら」が気になるんですね。
「薄く」とか「ベタつかない程度に」とか言えば良いじゃない、と個人的には思うのですが、この方の動画ではいつも「うっすら」とテロップが出てくる。
ということは、多くの人はそこまで気にしていないのかもしれません。
それでも、個人的に気になるものは気になるわけです。
「そんなこと、どうでもいいじゃないか」と言われれば、もちろんその通りなんですけど。
「どうでも良いじゃないか、そんなことはどうでも」と言えば、ザ・ハイロウズの『スーパーソニックジェットボーイ』ですね。あら。ご存じないですか。そういう歌詞が出てくるのですよ。
まあ、この一段落こそどうでもいい話なのですが。
「しょうゆが辛い」というコメントの意図
先日、料理のレシピを紹介するYouTubeを見ていました。そのレシピは炒め物で、味付けをした後、最後に「追いしょうゆ」をするというレシピでした。
通常、ぼくはYouTubeのコメント欄を目にすることはないのですが、その時たまたま見てみたら、こんなコメントが目に飛び込んできました。
「昨日家族に作って出したら、しょうゆが辛いと言われました」
ハイ。これを読んで、皆さんどう思われるでしょう。
ぼくは別に、何かに対して文句を言ったり、反対意見を述べることに関しては「言いたいなら言えばいい」というスタンスを取っています。レシピにしろ、ブログ記事にしろ、政策にしろ、オープンにされている以上は批判や反論の対象になることは避けられないでしょうからね。
ただまあ、その批判を受け止めるか、無視するか、ゴリゴリに論破するかの自由もあるとは思っていますが。
それはさておき。実際、レシピ動画を上げた人が作ったものをそのまんま作ったら、絶対に美味しくなるかどうかはわからんですし、味が濃い・薄いの好みもありますからね。
ぼくはこのコメントが、どうにもこうにも気になってしまったのです。
文章上の表現で、気になる点は特にありません。特殊な言い回しがあるわけでもないし、意味がわからないこともない。一度読んで、スッと理解できます。
じゃあ、何が気になるか。
「このコメントを残すことの意図は何だったのか?」
この一点に尽きます。このコメント主は、このコメントを残すことで、何がしたかったのか。あるいは、レシピ動画のアップ主に何を伝えたかったのか。はたまた、どんな回答を期待していたのか。
意図を明確にして文章を書くこと
例えば、これが以下のような文章なら、まだ理解はできます。
①「昨日家族に作って出したら、しょうゆが辛いと言われました。追い醤油はなしでも良いですか?」
②「昨日家族に作って出したら、しょうゆが辛いと言われました。損害賠償を請求します」
③「昨日家族に作って出したら、しょうゆが辛いと言われました。この下手くそバーカ」
なぜか。これらは全て「意図が明確」だからです。
①は質問、あるいは確認です。②は本気かどうかは置いておくとして警告、あるいは宣言と言えるでしょう。③は攻撃、あるいは侮辱ですね。
①にしろ②にしろ③にしろ、後から付け加えた言葉を発する人の人格をどうかと思う部分は多々あります(まあ、書いたのはぼくですが)。ただ、一応「こちらが何をしたいのか」は相手にも伝わるはずです。
が、最初にぼくが目にした文章の場合、そのどれにも当てはまらないのです。強いて言うなら「感想」でしょうか。
ただ、その「感想」をコメント欄に掲載して、この人はどういう回答を望んでいたのか。あるいは、相手にどう思ってほしかったのか? が、ぼくにはちょっと見えてこないのです。
「相手に何を伝えたいか」を考える
これはあくまでぼくの持論ですが「文章を書く」ということは「誰かに何かを伝える」こととセットで考えるものである、と思っています。
もちろん、自分しか読まないノートや、自分しかアクセスできないパソコンのメモ帳、あるいはチラシの裏に書かれる文章には、この考えは該当しません。それはもう、好きなように書いてくださったらよろしい。
しかし、その文章が一旦SNS、あるいはYouTubeやYahooニュースのコメント欄、あるいはブログ等々にアップされた瞬間に「誰かの目に触れる」「誰かに読まれる」ことは容易に想定されます。
「まさか、私のコメントが第三者に読まれるなんて!」と思ってSNSに投稿したり、コメントを書いたりする人はいないでしょう。いや、いるかもしれませんが、その考えは一般には通用しません。
ぼくは「文章には力がある」と信じています。文章を書くことで、自分と自分以外の誰かが理解し合い、わかりあえる可能性があると思っています。「当たり前やないか」と思うかもしれませんが、それは書き手が「誰に、何を伝えるか」そして「相手がどう受け取るか」を真剣に考えたところに生まれるものです。
反射的に書いた文章や、悪口を言いたいだけ、あるいは人の揚げ足を取りたいだけの文章もあるでしょう。でも、それは文章の力を「良い方向に」使っているとは言えないとぼくは考えます。
「相手に何を伝えたいか」あるいは「相手から、どういう反応(回答)を引き出したいか」を考えて文章を書く。それこそが、文章を書く上で大切なことじゃないか、と思うのです。
ところで「お前、YouTubeでパン作りの動画だのレシピ動画だのばっかり見てるのか」と思われた方。鋭い。ぼくにとってYouTubeとは「視覚からおいしいを吸収する装置」です。
どうでも良いじゃないか、そんなことはどうでも。