「アイーン」に意味はあるのか?
「ことば」には意味がある。
そりゃそうでしょ、意味のない言葉なんてないじゃんかと思うかもしれません。
あるいは「アメマ!」とか「オッパッピー」とか「アイーン」とか「だっふんだ」とかとか、意味のない言葉だってあるじゃないか、という方もいるかもしれません。
が。いま言いたいのはそういうことではなく。
あと、「オッパッピー」については「Ocean Pacific Peace」の略だ、という説がまことしやかに語られたことがあったような気がしますが、ほんまかいなとは思っています。
そう考えてみると、無意味な言葉の羅列だけであれだけの笑いを生んでいた志村けんってやっぱり偉大だったんだな、と改めて思います。言語の壁、超えてるもんね。
「紙」=「神」という説
「ことばが持つ『音』そのものに意味がある」という説があります。
ぼくは詳しく知らないのですが、「カタカムナ」などは「あ」とか「う」一文字ずつに意味がある、という考え方をするそうです。
が、今回言いたいのは単語が持つ「音」について。
例えば、ぼくの大恩人である平井ナナエさんは「紙=神」であると言います。
チラシを刷って誰かに渡すと、そのチラシきっかけで何年か後にその商品が売れたり・・・とか、紙に向かって自分の考えや悩みを一心不乱に書いていると、その悩みに対する答えが自ずと見つかってくる・・・など、紙が関わると「神がかったこと」が起こりやすいというのです。
その伝でいうと、「鼻紙」なんて「華」だし「神」だからすごそうですが、扱いが悪いですね。あ、最近は「ティッシュ」って言うからか(多分違う)。
五十音をどう配列するか・・・という意味では、それこそ無限に近いくらいあります。なのに、わざわざ「紙」と「神」が同じ音の配列になっているわけです。ひょっとすると、そこには何らかの意味があるのかも・・・? と。
たしかに、ぼくもそう思うわけです。
ただまあ・・・。知り合いに「相内さん」という、他人に対する愛情をひとかけらも持ち合わせていない人がいましたから、この説も眉唾ものかもしれません(フィクションです)。
と、ここまで聞いて「おいおい、理想が見えなくなったときの話を読みたいのに、どうなってるんだ?」と思っている方もいるかもしれませんので、念のためお伝えしておきます。
もう少々お待ちを。この後、ちゃーんとその話もしてますので。
「話す」ことで「離す」ことができる
「話す」ことは、人間にとって非常に意味があることです。
話すことで自分が考えていることを誰かに伝えることができるし、意思の疎通を図ることができる。
加えて「話す」ことは「離す」ことでもあるのでは・・・と思うのです。
自分一人で悩み、考えていると、その思考や感情のグルグル(とぼくは呼んでいます)から「離れる」ことが難しい。その渦中にい続けてしまい、より深みにハマってしまいやすくなる。
でも、そのことを誰かに少しでも「話す」ことができると、そのグルグルを自分から「離す」ことができるんじゃないか。そう思うのです。
ある友人が、こんな話をしてました。
「昔、算数を父親に教えてもらっている時、文章題が『わからない』と言ったら『何がわからない?』と聞いてくれたことがあって。『これがこうで・・・』と話しているうちに、その文章題を理解できた経験があるんです」
これぞまさに、「話す」ことで自分と課題とを「離す」ことができたからこそ。「何がわからないか」、「何が理解できていないか」のループから離れて「あ、そういうことか」という理解に至ることが出来たわけです。
「誰かに聞いてもらう」だけで解決することがある
そして、一方の「聞く」ことも、実はスゴいことだと最近改めて思っています。
友人が、こんなことを言いました。
「誰かが話を聞いてくれるだけで、問題が解決することがある」。
確かに。
もちろん、「聞き方」はあると思います。
スマホをいじり、鼻くそをほじりながら(もちろん鼻くそはティッシュ・・・いや、鼻紙でキレイに拭き取って頂きたい)聞いてもらったとしたら? 耳は傾けてくれていたとしても、受け取る印象は「ちょっと微妙」です。
逆に、熱心に聞いてもらいすぎると、かえってしんどくなることもあります。
こちらはとてもフラットに話しているのに「それは、その相手が悪いよ!」「〇〇ちゃんは全然悪くない!」「そいつめっちゃ腹立つ!」と自分以上に感情的になられてしまうと、ちょっと困ります。
まあ、それだけ自分のことで怒ってくれる人はきっと「いい人」なので、大切にされると良いと思いますが。
それはさておき。
聞くことにはそれだけのパワー、あるいはヒーリング的な効果があるんではないか。ぼくはそう思うのです。
「きく」。
「聞く」は「効く」、「利く」に通じる。
つまり、聞くことによって相手に何か有益なものをもたらす、効果を発揮することを、昔の人はなんとなく理解していたのかも・・・と思ったりするのです。
もちろん有益な話を聞かせてもらって、こちら側が役に立つ。聞かせてもらった側に「効く」あるいは「利く」こともあるでしょう。
冷酒と親の小言は後から利く・・・なんて言いますしね(圧倒的昭和感)。
でも、話し手にとっても「聞いてもらう」ことが重要でもある。
まあ、「音」のことで言えば「たまたまじゃね?」とか「こじつけくさくね?」と言われてしまうと、なかなか辛いものがあるわけですが。
聞きあうことで「理想」を見る
一方が話し、一方が聞く。
それによって新しいものが生まれたり、課題から離れることができたり、希望の方を向けるようになったり、理想が明確になったりする。
「だから何やねん」と思うでしょうか。
人はほっとくと、「悩み」、「苦しみ」、「あきらめ」を見る習性があるとぼくは思っています。
あ、それはぼくがそういう習性だから、というのは大いにあるわけですが。
でも、話を聞いてくれる人に話すことで「自分にとって課題は何か」、「どこで躓いているのか」、「何にモヤモヤしているのか」に気付くことができる。
さらに言えば、「本当の理想は何か」、「本当に目指したいことは何か」を明確にできる。
そんなことを思うのです。
そして、「話す」は「放つ」にも通じるように思います。
人に想いを話すということは、「放つ」ことと同じ。だとするならば、理想や希望を放つのか、それとも僻みや妬みを放つのか。
もちろん、どちらもあるでしょう。にんげんだもの。
でも、話しているうちに自分にとって本当の「理想」や「希望」を見つけられたら。
人に何かを話したり、人の話を聞くことには、それだけの力がある。ぼくはそう信じているのです。
ライター、特にインタビューライターというのは、まさに日常的に人の話を聞かせてもらい、そして問いかけることをしています。
だから・・・なのかもしれませんが、ぼく自身「話す」「聞く」ことに対して、とても大きな価値を置いていると感じています。
話すことで自分と課題とを「離す」ことができるし、未来に向けて理想を「放つ」ことができる。
ぼくはライターとして、その「離す」こと、「放つ」ことのお手伝いをしていきたい。そんな風に考えています。
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ぼくが「フリーランスになろう!」と思ったきっかけになったのは、『楽読』という速読スクールに通い始め、フリーランスで働く人たちとの接点が増えたことでした。
その『楽読』創業者が、今回のブログ記事でも紹介させていただいた「平井ナナエさん」。ぼくは「ナナちゃん」と呼ばせていただいておりますが、そのナナエさんがこの度、書籍を出版されました。
タイトルは『あなたの起業が人生と世界を変える』。
ぼくも少しだけ、編集協力として参加させていただいております。
フリーランスで働きたい、起業したい! という方にはドンピシャな内容です。世の中によくある「起業本」とは一線を画しているかもしれませんが、読んで損はありません(断言)。