「モノが捨てられない人あるある」言いたい
ぼくは、モノが捨てられない人である。
基本的に、モノをあまり「捨てたくない」と思ってしまう。「必要がありそうなモノ」は当然だけれど、場合によっては「これはもう必要ないかもな」と思っているものでさえ、捨てるのをためらうことがある。
例えば、ぼくはいま40代中盤なのだけれど、未だに大学生の時に買ったコートを持っている。しかも時々着用もしている。これはまあ、まだ「必要がありそうなモノ」に分類してもいいけれど、同じように大学生の頃に買ったテキストや、浪人していた頃に買った参考書を持っていたりする。
あ、浪人していたと言っても、仕えていた藩がお取り潰しにあって、剣の達人でありながら日本各地を流浪して歩きながら用心棒をして食いつないでいた時期があったわけではなく。大学受験に失敗して予備校に通ってた時期ってことね。
え。みんなそんなことわかってるって!?(白々しい)
それだけではない。
財布の中にはレシートが溜まりがちだし、使い切った電池を取っておいてしまいがちだし、予備のために印刷しておいた、既に発表を終えたプレゼン資料も未だに持っていがちでもある。
飛行機で手荷物を預けた時、荷物に貼られるシールもはがさないでおきがちだったのだけれど、これはさすがに「はがさないと、荷物を分ける人が間違えてロストバゲージになる原因になりがち」と聞いてから、すぐはがすようになった。
これは、料理をするときや食事をするときにも出てしまう。キュウリやナスのヘタは可食部ギリギリで切ろうとしがちだし、野菜の皮はむかないことも多いし、むいたとしても、できるだけ薄くむきがちである。
骨付き肉は骨に付いているお肉までかじり取りがちだし、なんなら鶏の軟骨くらいはムシャムシャ食べてしまう。うどんやラーメンのスープ? そりゃ飲みがちである。となると、サンドイッチなどに付いてくるパセリにも手を伸ばしがち・・・となる。
途中からちょっと「ただ単に食い意地が張ってる人」みたいになったのが心外ではあるけれど、まあよい。
捨てることに挑戦してみた
ともかく、ぼくは基本的に「モノが捨てられない人」である。あるいは、あった。
なぜ「あった」と書いたかと言うと、いまぼくは絶賛「モノを捨てること」にトライし続けているからである。
きっかけは、東京の家を引き払って、香川県に引っ越してきたことである。
それはそうと、なぜ「引き」払って、「引っ」越すのだろうか。あまり「押し払う」人もいないし「押し越す」人もいない。移動する際は引くほうがスムーズなんだろうか。
それはさておき。
先ほどから書いている通り、ぼくは生きているだけで呼吸をするようにモノが集まってしまうひとなので、東京の家にもまあまあモノが溢れていた。
引っ越してから2年以上全く開かないダンボールが複数あり、しかもそれをそのまま次の引越し先まで持っていくという愚行を行ったことすらある。
一人暮らしなのにマグカップとグラスが4つずつ、ハシは10膳くらいあったし、普段使わない皿まで含めると、フランス料理のフルコースくらいは振る舞えるんじゃないかというくらい持っていた。
書籍、本という厄介な代物もある。
一度読んだ本も「もう一度読みたくなるかもしれない・・・」と思って手放すのをためらっていると、どんどん増えていく。「本で家の床が抜ける」なんて話を聞くことがあるけれど、ない話じゃないよね、と思ったりする。
後は洋服。そんなにいい服を持っているわけではないけれど、気に入ったTシャツを見かけるとつい買ってしまったり、エリが汚れたYシャツも「漂白すれば着られるのでは」と思ってみたり、形の古いジャケットやスーツも「流行りがもう一周来るのでは」と考えたりして、タンスの肥やしが増えていく。
こういった諸々を、一掃することにしたのである。
もちろん捨てたものもあるし、売れるものは売ったりもした。日によっては、大きなゴミ袋に5〜6袋のゴミを出した日もあった。紙袋に本やら何やらを大量に入れて古本屋に持ち込んで、小銭をもらってトボトボ帰ったこともある。
本題とは全く関係ないけれど、あの経験は地味にダメージがデカい。「売るぞ!」と決めるコスト、古本屋まで持っていくコストに比べて、売れた時のお金の少なさたるや。まあ良いんだけど。
とまあ、そんなこんなで、かなりの量のモノを手放すことができた。「まだ使えるのにもったいない」という気持ちがゼロかと言われれば、そうではない。でも、ぼくにとっては一旦手放す、捨てることが必要だったのである。
注意力には限界がある
精神科医で、禅宗(臨済宗)のお坊さんでもある川野泰周さんという方が書いた『半分、減らす。』という本がある。あ、安心してほしい。この本はKindleで読んだので、物理的に本が増えたということはない。
▲川野泰周著『半分、減らす。』(クリックするとAmazonのページに飛びます)
川野さんによると、人間が一度に使える集中力の量には限界がある、という。それを「注意資源」というのだそうな。モノが多い部屋にいると、意識していなくても置いてあるモノに注意が奪われ、自分が集中したいものに注げる「注意資源」が減るらしい。
確かに、美術館なんかは展示と展示の間が離れているから、一つの作品を集中して鑑賞できるのだろう。
まあ、ぼくは絵画を見ても「食べられそうか、食べられないか」でしか見ていないので、集中もへったくれもないのだけれど(一部フィクション)。
だから、机の上はできるだけモノがない状態にしておいた方が仕事に集中しやすいし、もっと言えばパソコンのデスクトップもゴチャついていない方がいい、らしい。
文章を書くときこそ「捨てる」を意識する
ということは・・・だ。
文章も、できるだけ要らないモノ、余計なモノは省いた方がいいんじゃないか・・・?
これはその通りで、ぼくも文章を書くときは書いた後、必ず後から見返すようにしている。ぼくは書き始めるとダーッと書きたいことを並べ立てていくタイプなので、途中で精査をすることなく、できるだけノンストップで書いてしまうようにしている。
これはあくまで個人的な感想だけれど、勢い良く書いている時、ぼくはいい意味で「考えていない」。何か伝えたいこと、言いたいこと、書きたいことを自動書記とまでは言わないけれど、勝手にタイピングしている感じがある。
これはこれで悪くない。結果として、いい文章が出来上がればそれでいい。ただ後から見返すと、要らない部分はけっこう見つかる。要らない接続詞などは日常茶飯事だし、ぼくの場合、「という」が不要なケースもよく見かける。
そういった諸々を後から冷静に見て、捨てていく。そういう作業は必ず入れるようにしている。そうすることで、読む人の「注意資源」を必要以上に使わなくて済むからである。
一方で、「必要なムダ」というのもある。田舎に住む母親に「カネ送れ」だけLINEする息子をどう思うだろうか。確かに、お母さんの注意資源は損なわないかもしれないが、ほかの大切な何かが損なわれていることに気づくはずだ。というか、気づけ! 息子よ(急な憤り)
あるいは家にいる奥さん(別に旦那さんでも構わない)に、「今日、メシいらない」とだけ連絡したら、どうか。ぼくが晩ごはんを作って待っている側だったら、荷物をまとめて即家出案件である。
ただ、多くの場合は「捨てる」ことに意識を向けたほうが、いい文章が作れると思う。
インタビュー記事を書くとき、プロフィール文を書くときも全く同じことが言える。あれも書きたい、これも言いたいといろいろな要素をかき集めてしまうと、脈略がない、ストーリー性に乏しい、何が言いたいんだかわからない文章が出来上がってしまう。
「捨てる」ときに大切なことは「軸」を決めること。文章を書く際であれば、「この文章で何を伝えたいか」、「誰に、何を届けたいか」、「読み手にどう行動してほしいか」を考えて、それを軸として、要素の取捨選択をしていく。
でもこれはけっこう難しい。モノを捨てるときと一緒で「要らない」とは思うものの「でも、あった方がいいんじゃないか・・・」とか「残しといたら役に立つかも・・・」という思考が働くことはある。当然ある。
だからこそ、迷ったら「一度捨ててみる」ことをオススメしたい。その結果「やっぱり必要かも」となったら、戻してもいい。
一度捨ててみること。削ぎ落としてみること。伝わる文章を書く上ではオススメの考え方である。