「トチカン」についてのアレコレ
「土地勘」ってあるじゃないですか。
調べてみたら、元々は「土地鑑」と書いていたらしく、しかも警察用語だったんだそうです(Wikipedia情報)。
「ある一定の範囲の地域における地形や地理、道路の構造、家屋・建物の配置、さらには生活習慣などについての知識や経験が身についていることを指す」とあります。
この場合は「勘が働く」ではなく「鑑定」とか「鑑識」のように「見分ける・点検する」という意味で「鑑」が使われていたのでしょうね。
ぼくは香川県に本格的に移住してもうすぐ一年経ちますが、ようやく、地名と場所が一致してくるようになってきました。
例えば、高松市は香川で言うと割と真ん中くらいに位置していて、東にさぬき市、東かがわ市、西に行くと坂出市、丸亀市がある。さらには、高松市から南西に行くと「金毘羅さん」で有名な琴平町がある。
位置関係とは別の話ですが、多度津町と宇多津町は似てるけど違うところで、綾川町と綾歌町もまた別。ついでに言うと、香川にも「国分寺」と「府中」がある。
このあたりまでは把握できるようになってきました。
ただ、地名を聞いて「あの辺りだな」とわかるところまではたどり着いたのですが、次のステップとして、詳細な位置関係まで把握しているか、あるいは、どのルートを通ればそこに行けるか、そこからどのように周辺地域が広がっているかまで把握しているかと言うと、自信がありません。
なので、奥さん(香川県民)に「あれってこの辺だよね?」「アレとアレって近い?」と尋ねて、怪訝な顔をされたり、呆れられることもまだまだ多々あります。
「知る」と「わかる」は大違いという話
「知っている」ことと「わかっている」ことには、明確な違いがあると思います。
「知っている」は、言ってみれば「国分寺」と言われて「ああ、あの『ビッグ』とか、『スーパーきむら』があるあたりね」とピンとくること。ちなみにコメダ珈琲店もあります。
ぼくは中央線の国分寺駅には全く土地鑑がないので、どうしても香川の「国分寺」がパッと頭に浮かぶわけですが。
では、そのことを「わかっている」とはどういうことか。それは「今いる場所から、目的地まで実際にたどり着けること」に近いと思います。
「どのあたりかはボンヤリ知ってるけど、どう行っていいかはわからない」というのは「わかっている」状態とはいい難い。
実は日常生活でも、同じようなことが起きているかもしれない、とぼくは考えているのです。
「こうしたらいい」とか「こうすれば上手くいく」あるいは「世の中ではこう言われている」ということを「知っている」だけでは、そこにたどり着くことはできません。
百歩譲って言えば「たどり着けるかどうか、確証はない」わけですね。
「習慣化すると、何かをするのが苦にならない」とか「炭水化物を減らすと面白いように痩せていく」とか「ビジネスで成功する秘訣は〇〇だ」とか、知ってはいても、それが実際に「わかっている」かどうかと言われると、「?」だなと思うことがあるのです。
「知っている」と思うと、話が入ってこなくなる
とかく人は「ああ、それは知ってる」とか、場合によっては「そんなことはわかってる」と思ってしまいがちです。
「目の前の現実は全て自分が創り出している」とか「自分の潜在意識が現実を引き寄せている」なんて話を聞くと「あー、はいはい。知ってる話、わかってる話だ」と思ってしまいがちです。が。本当にそうかどうかは、大変アヤシイと見ています。
何しろ、ぼく自身が「知ってる」とすぐに思ってしまいがちだから。
例えば、「炭水化物と脂質を減らして、運動をすれば痩せる」くらいのことは「知っている」わけですが、「わかっている」かどうかと言われると、はてさて・・・。むしろ「わかりたくない」と思っているフシすらある。何しろ、「趣味が炭水化物」という人ですからね。ワタクシ・・・。
それはさておき。「知ってる」とか「わかってる」と思った瞬間に、自分のアンテナは作動しなくなります。その話を聞いているようで聞いていないし、書籍であれば読んでいるようで読んでいないということになります。
見方を変えると、ひょっとしたら、あなたは今、この瞬間、このブログを「読んでいるようで読んでいないかもしれない」という話です。
まあ、こんな与太話読んでも読まなくても・・・と思うかもしれませんが。
ただ、それが先輩からの大切な指摘だったり、尊敬する師匠からのアドバイスだった場合、ひょっとすると「知ってる・わかってる」で聞いたフリになってしまった結果、大切なものを掴み損ねる可能性は大いにあります。
ええ、何を隠そう、ぼくがそうでしたから。
「わかる」の向こう側に「できる」がある
「知ってる」「わかってる」のさらにもう一段階深いところに「できている」があります。これは当たり前ですが「やってみる」の段階を経ないとたどり着かない領域です。
ぼくの師匠は、こんなことを常々言います。
「言ってるヤツより、やってるヤツ。やってるヤツより、できたヤツ」
この言葉を聞いた当初、ぼくは「結局できてるヤツが評価されるんじゃないか」と思っていたのですが、そういうことではないのです。
いくら偉そうに御託を並べても、それを実際にやってみないことには始まらない。そして「やってみる」の段階がなければ「できる」という領域には決してたどり着かない。そういうことをも含んでいたのだと思います。あくまでぼくの推測ですが。
現代社会を生きるぼくたちは、やっていないこともヴァーチャルに体験できたりします。その結果、実際には「やっていない」ことを「やってみた」ような気になることもあります。
あるいは、人の話を聞いて「〇〇は△△らしい」と頭で理解して、「やってみた」気になることも多々あります。でも、それは「実際にやってみて」はいません。
例えば、高松市から観音寺市までのルートをgoogleで検索すれば、それこそ秒で出てきます。でも、実際には車を走らせるなり、電車に乗るなりして、実際にやってみないと「行った」ことにはなりません。
でも、私たちはついつい出てきた検索結果を「そういうもんだ」と思ってしまうことがある。というか、ほぼそうじゃないかと思います。
かく言うぼくも、誰かの解説を聞いて「わかった」と思って、他の人に「それはね・・・」とあたかも自分が体得したかのように話すことがありました。しかも、それを聞いた相手に自慢気に話すという失態すらしたことがあります。ああ恥ずかしい。
「腑に落ちる」ことこそが宝物
何が言いたいかというと「知る」「わかる」「できる」の間には、大きな溝があって、それを超えない限りは「できた」とは言えない。
さらに踏み込んで言うとするならば、自分が「できたこと」以外は、誰に何を言っても結局伝わらないんじゃないか? ということです。
もちろん、「知ってる」「わかってる」レベルのことを誰かに伝えて、それが相手の役に立つこともあるでしょう。感謝されることもあるはずです。が、その価値は限定的じゃないか、とぼくは思っています。
実際にやってみて「ああ、これはこうなってるのか」とか「ココはこういうことなのか」と、本当の意味で「腑に落ちる」。その経験こそが宝と言いますか、本当に価値のあるものではないかと思うのです。
別に「これからの情報発信は『できたこと』じゃないとダメー」と言いたいわけではありません。別に「知ってる」「わかってる」レベルの話をしてもいいと思います。
ただ、それを実際にトライしてみて「やってみると、こうだったよ」という方が、確実に自分の身にもなるし、相手の役にも立つ。手間暇も時間もかかるし「効率的」ではないかもしれませんが、大いに「効果的」ではないかと思うのです。
「そこへの行き方は知ってる」、「その店のことは知ってる」よりも、実際に足を運んでみる。経験してみる。そこで自分が何を感じるのか、を味わってみる。
そういう経験の積み重ねこそ、人間としての「厚み」と言いますか、説得力につながるのではないか。そう思うのです。
だからこそ、ぼくは今日も朝・昼・晩とご飯を元気に食べて、「美味しかったです!」と皆さんにお伝えするわけですが・・・。
あ、そういう話は別に必要ない、と。